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わが会社人生に悔いなし!№9

シニアライフ

前回は、監督が一堂に集まり、日々格闘する出来事のお話をしました。今回は、契約の勢いが加速するに伴い、現場での波乱万丈の出来事をお話ししたいと思います。すでに私は退社していますが、ここでは「わが社」と言わせていただいています。

当時の住宅の現場監督の具体的な仕事

①すべての発注が積算部門で行われるわけでなかったので、かなりの部分を監督が行っていました。大工・基礎・建材等のメインの発注をしていました。
②お客様との仕様打ち合わせ・色合わせを行っていました。
③現場用図面・大工用図面も作成し、手渡しで説明していました。当時は、設計事務所の先生が描いた図面を使い青焼き機というもので図面も1枚1枚印刷していました。
④図面の製本も手作りで表紙は、現場で余ったクロスを使って作成しました。
⑤製剤した材料を材木屋さん・工場ができてからは工場で和室の化粧柱・化粧材(敷居鴨居等)を図面を見て、選別選定していきました。
洋間の入口・窓枠材は、材木屋さんから大工さんの加工場又は大工さんが材木屋さんの加工場を予約して加工していました。(現在様に工場であらかじめ加工した既製品ではありませんでした)
⑦和室の檜・べに松材等を鉋をかけ、敷居鴨居の溝を工具で加工し、廻し子の銀南面(銀杏のような複雑な加工)等を大工さんが加工していました。また、洋間の材料も鉋をかけをし、見つけ(見える部分)の角は面(丸面・角面等)をとりました。膨大は鉋屑の料でした。これを現場で行う大工さんもいましたので今では想像を絶します。
ヒノキ材の流通が少ない時期には、和室の化粧柱を選び出すのは至難の業でした。和室ですから節のないように小さい節になるように苦労して選びますがそれでも材料不足で目をつぶって、大きな節ある材料だしをしました。
⑨工事の工程表の作成。
⑩ちろん、現場の管理監督。
当時は和風の家づくりで人気がありましたので、玄関・床の間は特に凝っていました。監督自ら銘木屋さんに行き、1邸1邸簡単な図面を書き選んでいました。1邸1邸違うのがステータスでした。
⑫標準見積りは、積算でしてくれたが、特注オプションは監督の仕事。
⑬入社してしばらくは、日曜祭日のみ休みで、土曜日が半ドン(半日休み)の時代でした。
こんなに何から何まで1人でこなすわけですから、仕事量は尋常でありません。そこで、会議の時に「監督には明日はない」という言葉が口から出てしまいました。

契約数のあまりの多さ

契約の連鎖がとめどなく続き、他社の誹謗中傷が鳴りやまず、唯一の契約の手段である現場看板を下ろすことになる。
②とにかくどこよりも材料が良く、仕事も丁寧でいい仕事ですから、契約しないわけがない。私たちも自信満々で仕事をしていました。
③もちろんその当時、雲の上の存在でしたS林業さんよりもうちの方がいい家を作っているという自負がありました。

このようにイケイケの時に、さらに
1983年に40年程の長きにわたりヒットしている商品の発表があり、和風の会社から洋風住宅も売れる会社に変身しました。
●まさに神戸・横浜・長崎の洋館を思わせるたたずまいとデザインで造りで監督の我々もドキドキしました。
●誰もが建てたくなる洋館で内部の仕様も無垢材をふんだんに使ったまさしく西洋の洋館の趣。
●この時、出入り口の高さが2mという当時、どの会社もやってない思いつかない仕様になった。
●天井高も2400㎜が当たり前の時に2750㎜というとてつもなく高い部屋を1階の標準とした。
●ベイウインドウ・ニッチ・コニスリターン様々な洋館の素材がありました。


その他の展示場でもバカ売れで、もう向かうところ敵なしです。しかし、そんなに売って工事は、できるのでしょうか?今までは、プレカット工場のおかげで何とか紙一重でやってこれましたが?次回は、洋風のヒット商品が出てからのお話をしたいと思います。ぜひ、ご覧ください。

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